リモートワークと押印と”二段の推定”

新型コロナ感染防止のため、多くの企業でリモートワークが推奨されています。しかし、上司の決裁印をもらうため、あるいは各種書類に自分が押印するため、出社せざるを得ない場面があるとも言われます。ただそこには、押印の法的意味についての誤解を前提とする行動もあるようにお見受けします。

社内決裁書、契約書等への押印は法的義務ではない

ネット上には「企業が押印を止めないのは、それが法律上の義務だから」との言説も見受けられますが、原則として間違いです。裁判所に訴状を提出するような例外的な場面では提出書面への押印が求められることもありますが(例:民事訴訟規則2条 訴状、準備書面その他の当事者又は代理人が裁判所に提出すべき書面には・・当事者又は代理人が記名押印するものとする。)民間の日常的な書面に関しては、原則として、押印は法的義務ではありません。勤務先が決裁書への押印を止めないのは、法律のせいではなく,いまだに電子決済システムを導入しない勤務先のせいです。また契約の成立に関しても、押印その他の特定の方式は不要です。

(契約の成立と方式)
民法第522条 2 契約の成立には、法令に特別の定めがある場合を除き、書面の作成その他の方式を具備することを要しない。

民事訴訟における押印の意味(二段の推定)

ただ、契約をめぐる紛争が生じ、契約書類が証拠として民事訴訟に提出されるときは、押印の有無によりその扱いに差が生じます。民事訴訟法は、まず

第228条 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。

と規定します。成立が真正であるとは、その提出者(例:原告)が主張する作成者(例:契約名義人A氏)により作成されたものであることをいいます。A氏名義の契約書だけれど実はB氏により作成されたもの(B氏による偽造文書)である場合、それをA氏作成の文書として証拠にすることはできません(B氏による文書偽造事件の裁判であれば「作成者はB氏である」と主張してこれを証拠にすることはできます)。その上で、同条4項は

4 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。

と規定します。契約書に、契約者本人A氏の署名又は押印があるときは、その契約書はA氏により作成されたものと推定される(一応そのように扱われる)ということです。但しこれは「押印さえあれば、他人が勝手に押印した偽造文書でも真正に成立したものと推定する」というハチャメチャな規定でないことは当然なので、判例は、上記条文に下記赤文字部分を挿入して解釈します。

4 私文書は、本人又はその代理人の(その意思に基づく)署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。

*「本人又ハ其ノ代理人ノ署名又ハ捺印アルトキ」というのは、該署名または捺印が、本人またはその代理人の意思に基づいて、真正に成立したときの謂である(最高裁第三小法廷昭和39年5月12日判決)

*ネット上には、228条4項を上記のようなハチャメチャな規定であるとして非難する言説もありますが、完全に誤解です。

ところで、実印や銀行取引印等は、通常は他人に自由に触らせるものではありません。ということは、もし、そのように特定人により管理されている印が文書に押捺されていたら、それは、まず経験則による推定として本人の意思に基づく押印であると推定することができます。これにより、上記228条4項の要件が赤文字カッコ部分を含めて充足され、その結果、その私文書は、228条4項による推定として、本人が作成したものであると推定されます(上記昭和39年5月12日判決)。

これは、二段の推定と呼ばれます。押印が特別な意味を持つのは、この二段の推定が適用される場面です。

二段の推定から外れる場合

逆に言うと、特定人以外の人も自由に使える印については、もしその印が押されていたとしても、特定人が押したのかそれ以外の人が押したのか判らず、経験則上、本人の意思に基づく押印であると推定することができず、二段の推定の前提である経験則の範囲から外れるので、二段の推定が適用されません。

(最高裁第一小法廷昭和50年6月12日)
・・右にいう当該名義人の印章とは、印鑑登録をされている実印のみをさすものではないが、当該名義人の印章であることを要し、名義人が他の者と共有、共用している印章はこれに含まれないと解するのを相当とする。
これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実によれば、「本件各修正申告書の上告人名下の印影を顕出した印章は、上告人ら親子の家庭で用いられている通常のいわゆる三文判であり、上告人のものと限ったものでない」というのであるから、右印章を本件各申告書の名義人である上告人の印章ということはできないのであって、その印影が上告人の意思に基づいて顕出されたものとたやすく推定することは許されないといわなければならない。

そしてそのように上記228条4項による効力を否定された文書は、押印のない文書として扱われ、契約締結の経緯等の押印以外の事実関係を検討して、成立の真正が判断されます。

上記昭和50年最高裁判決も、二段の推定を否定した後、以下のように続けます。

しかしながら、原審の適法に確定した事実によると、本件各申告書は、上告人よりその権限を与えられた上告人の母@@が上告人のために作成したことが明らかであり、右各申告書を上告人の意思に基づく真正の文書と認めた原審の認定判断は、結局、正当として是認することができる。

なお実際には、228条4項が適用される場合でも、裁判官はそれだけでインスタントに真正な文書であると認定することはせず、それに加えて契約の動機・目的、契約締結の経緯等の種々の事実も検討した上で、真正の文書であると認定することが多いと思います。

*ネット上には「今や印鑑をスキャンし3Dプリンタで造形すれば同じ印鑑を偽造できるのだから、押印に特別な意味を持たせる法律は時代遅れ」等の言説もありますが、押印に民事訴訟法上の特別な意味が与えられるのは、上記の通り他人には自由に触らせない印鑑に関してであるので、それをスキャンするのは元来困難です。