通常損耗の原状回復

賃貸借契約が終了し、賃借人が賃貸人に対し賃借物(貸室等)を明け渡すに際しては、賃借物を原状に復する義務があります。これについて新民法は

第六百二十一条 賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。以下この条において同じ。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。ただし、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。

と定めます。

これによれば、壁クロスに入居時になかった日焼けが生じていたとしても、賃借人は、退去時にこれを張り替える必要はありませんが、ペットのネコが壁クロスで爪研ぎをするのを放置してボロボロにさせた場合には(それは壁クロスの通常の使用ではないので)、退去時に壁クロスを張り替える義務を負います。

上記において通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除くとされているのは、物件を一定の期間他人に使わせるのがそもそも賃貸借契約というものなのだから、通常の使用や年月の経過による物件の劣化(通常損耗)が生じることは始めからわかりきっていて、その価値減少分は、減価償却費+修繕費等を賃料の中に含ませて回収するのが通例であり、賃借人としては、賃料とは別に通常損耗分を別途請求されるとは思っておらず、通常損耗の原状回復費用の請求を認めると、賃借人に想定外の負担を課すことになってしまうからです(平成17年12月16日最高裁第二小法廷判決参照)。

もっとも、賃貸人が、通常損耗費部分の回収を賃料に含ませて行うか、契約所定の一時金をもって充てるかは、賃貸人としての賃貸営業における政策判断の問題です(平成23年7月12日最高裁第三小法廷判決の原睦夫裁判官補足意見)。したがって、退去時に通常損耗分の原状回復費を負担させる内容の賃貸借契約も契約自由の原則(民法521条)から許容されます。ただそれは

賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから、賃借人に同義務が認められるためには、少なくとも、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか、仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなど、その旨の特約が明確に合意されていることが必要である(前記平成17年12月16日最高裁判決)

とされます。

これによれば、賃借人に通常損耗の範囲についても原状回復費を負担させる条項は

(1)「民法621条括弧書きにかかわらず通常損耗の範囲についても原状回復義務を負担させる特約である」旨を明示し
(2)その範囲を具体的に明記したものであること(例:「専門業者によるエアコンのクリーニング」「壁クロスの張り替え」等)

が必要であると思います。(1)の記載のみでは、原状回復工事の範囲が具体的に明記されておらず、賃借人に予期しない特別の負担を課すことになる可能性があります(賃借人の立場になってみれば「いったい何の費用をいくら負担させられるのだろう・・」と不安になるはずです)。逆に(2)の例えば「エアコンのクリーニング費用は賃借人の負担とする」との条項のみでは、ヘビースモーカーがエアコンを煙草のヤニで汚損したような場合(特別損耗が発生した場合)だけクリーニングをするのか、通常の使用に伴うホコリ汚れ(通常損耗)を洗浄するためだけでもクリーニングを依頼するのかが、明確ではありません(平成29年4月25日東京地裁判決 平成28年(レ)994号、平成21年7月30日京都地裁判決 平成20年(ワ)3216号等参照)。但し(1)については、例えば「入居期間の長短にかかわらずエアコンのクリーニングをしなければならない」のように通常損耗の原状回復を含む趣旨が明らかであれば足りるとされる場合もあります(平成31年3月11日東京地裁判決参照)。

なお、賃借人に通常損耗の範囲についての原状回復費を負担させるには、賃貸借契約において工事費用があらかじめ具体的に定められていることを要するとの考え方もありますが、前記平成17年12月16日最高裁判決以降の裁判例には、そのような考え方を否定したものが散見されます(上記平成31年3月11日東京地裁判決、平成29年10月23日東京地裁判決)。原状回復の内容が具体的に定められていれば、その負担とする額が標準的な金額の範囲内に留まる限り、賃借人に予期しない特別の負担を課すことにはならないからです。そもそも金額まで具体的に定めてその確定額を敷金から差し引くとなれば、それは敷引特約と呼ばれる別の問題になると思われますが(平成23年7月12日最高裁判決参照)、敷引特約として有効であれば、その場合は最高裁がわざわざ判示した「通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されていなければならない」という要件が不要になってしまうと思います。